昨日と今日、二日間にわたって、絵本学会に出席してきました。
今年の会場は京都女子大学。プリンセスラインバスという真っ赤なかわいくペインティングされたバスに乗って、行ってきました。

とても勉強になる二日間でした。

ただ、この二日間でやはり考えさせられたことは、
「児童文学や絵本をどういった立場でみるか・読むか」ということです。

児童文学や絵本の研究や出版を複雑にしている背景には、
この「どの立場で描くのか、研究するのか、論じるのか」という
ことが混沌としていて、共通意識として全員が持てない・持てていないことで「絵本論」「絵本学」という成立をむつかしくしている要因だと感じています。逆に、だからこそいろいろな視点がはいるので、研究していける要素があるのですが。

研究発表のときにでも、福祉や教育分野からとらえられた発表や質疑応答の発言を聞くと、「子どもにどう与えるのか」という視点や「どうよみとらせるのか」「教育的立場」という視点にたった発言もありましたし・・・。
それは、その方の仕事上・研究上、必要なことなのかもしれません。

児童書というのは、親(または、学校や幼稚園や保育園)が子どもに買う商品である以上、
大人(親)が買い与えやすい作品である必要があるという意見もあります。
マーケティング上は、その方がいいのであるのは確かだし、出版社としては、その方が売れるので助かります。
ですが、
大人が理解できない作品でも子どもがわかる・好きな作品というのもあるはずだし、それをすべて排除して、大人のフィルターを通してしまってもいいものなのかどうか・・・。

ぐるぐると頭の中は、めぐります。

実は、私の卒業した学科が来年度より文学部ではなくなります。
私は学科が設立されて比較的早くに入学したこともあって、
設立に奔走された教授の授業もうけており、
「なぜ、文学部で児童文学を研究・創作するのか。教育学部ではないのか」という設立した意味を何度となく聞かされていました。それは、今でも私の本を読むうえで基本部分をなしており、それを消し去ることはできません。

まだ、当時は、児童文学や絵本が保育や教育素材として
書かれたり研究されたりしていた時代です。
「文学のジャンルとして児童文学の研究を成立させる。そして子どもの文学・文芸として創作する」ということが、めあたらしかったと思います。そういった、雰囲気で研究・創作ができた環境に感謝します。

まだ、文学ジャンルとしての研究はしつくされていないと思うのですが、今後、学部がかわってしまったら、
この姿勢は保つことはできるのかどうか、非常に不安です。
創作をしようと入学する入学生にも、どうぞ「子どもの文学を創作する」という姿勢を大切にしてもらいたいと思います。

やはり、時代がたっても、私が児童文学や絵本に求めるものは
「子どものための文学」で、
子どもを教育するために都合良く書かれた作品であっては
ならないということ。
自由に子どもが考え想像し、何通りにも答えが読み取れる作品。(大人が全て答えを出してしまっている作品は、おもしろくないと思います)

ただ仕事として、大人が子どもに期待する答えを必要とする作品をつくらなければならないのであれば、それは、そのときの状況でつくることもあるでしょう。ただし、そのときには、自分なりのスタンスを必ず入れておきます。これはお金をえるための手段です。
なので、今後、絵本や児童文学を創作するつもりにしている人には、このような仕事もやってくるでしょう。作風を使い分けられる器用さがあるといいかもしれないですね。

追記
よくよく考えたら、私が卒業した学科は、4年前の学部編成で
すでに文学部から文化表現学部なるものにかわっていました。
まだ、4年しかたっていないのに、学部がかわり、学科名称もなくなる。学科卒業生の多くがショックを受けたのは言うまでもありません。

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